弔辞        

        椎名悦三郎 (友人代表 衆議院議員)


岩畔さん、あなたは最近健康がすぐれないとは聞いておりましたが、今年の夏ごろでしたか、私の事務所の近くでともに食事をしたときは、まことに元気で、これならまだまだ活躍されるなと思つていた矢先の計報にびつくりしました。私はいま、心の友を失つた悲しみでいつばいです。
岩畔さん、あなたと相知つてから四十五、六年になります。あなたが陸大卒業後間もない頃、陸軍中尉で内閣資源局勤務中で、上役の堀三也少佐とともに愛知県に出張された時が、あなたと会つた最初でした。私は当時愛知県商工課長として名古屋に在住しておりましたので、公務としてお二人をお迎えしたわけです。

用務をすませて、夕刻、粗末ながら食事をともにしながら、親しく歓談の機会を得たのでした。初対面ながら妙に意気投合し、酔う程に大いに談論風発お終いには甚句をうたい、踊り出すというところまで歓を尽す始末でした。
これが御縁で、あなたは陸軍省に私は商工省に戻つてからでも、何か機会あつて顔を合わせる度毎にこの話しが出て、段々二人の間に親近感が深まつて来たのでした。

昭和八年、商工省から多数満州国に派遣されることとなり、私もその中に加わつて渡満いたしました。丁度あなたは関東軍に在勤せられ、再び旧交を温めることになつたのであります。特に私の忘れることの出来ないのは、私の発案した臨時産業調査局案を実現するため、関東軍の側から非常に有力な推進をして下すつたことです。私ども商工省から派遣されたものの最大の使命はここにあつたのであり、その陰の協力者はあなたであつたといつても、決して過言ではないのであります。私が満州から帰任した昭和十四年ごろ、あなたは軍務局の軍事課長として、陸軍を通じて最も重要な中堅幹部の一人でありました。

私は時々連絡のため陸軍省を訪れ、度々お目にもかかり、夕食をともにしたことも覚えています。あるとき、ときの商工大臣藤原銀次郎さんの茶室に、岸信介氏らとともに招待されたことがありました。あなたが米国旅行をするに際して、純日本式のテーブル・マナーもまた何かの足しになるだろうからとのことでしたが、藤原さんは万事枯淡な調子で茶道の話など手短かに述べられ、あなたは熱心に興味深げに雑談しておられました。茶席における藤原翁と陸軍きつての鬼才岩畔さんとの対決は、私として忘れることの出来ぬ一場面でありました。

暫くして渡米の用務を終えて帰国され、殆んどスレスレに日米戦争が起つたと記憶しております。あなたは米国の事情をつぶさに視察して帰り、対米戦争は極めて危険であるとの意見具申されたとか聞きました。しかしはや騎虎の勢い、いかんともなし難かつたと思います。
愚痴になりますが、あなたがもしもつと早く生れていたならば、戦争が始まらなかつたかも知れぬ、少くとも戦争の終結はもつと違つていたかも知れません。何れにしてもこの間の事情は、詳しくあなたから聞いておきたかつたと今更悔まれます。
陸軍には多くの人にお世話になりましたが、最も長いお付合いはあなたです。
終戦後も時々お目にかかることを得、最近は京都産業大学の大幹部に就任せられ、齢六十を越えてなお一学徒として究理の道に進まれる、純真にしてたくましい姿を拝見して、賛嘆惜しまざるものがありました。必ずやあなたらしい、立派な成果が得られるものと期待した次第であります。

うけたまわれば、「科学時代から人間の時代へ」との題名の下に、御遺稿がすでに大体まとめられており、わずかの整理を加えることにより、これを上梓しようとする計画があると聞きました。あなたの広い人生経験と高い理想正しい判断によつて生れた労作は、今日の世道人心に対して、絶好の贈物になるであろうと信じます。
どうぞ、心安らかにお眠りください。