「棺を蓋いて事定まる」 という言葉がある。

人の評価は死んで棺桶に蓋が置かれて、初めて、明らかになるといった意味ではある。

岩畔の場合、終戦後25年経って亡くなった時には、「好戦的な軍部(特に陸軍)が日本を戦争へと駆り立てた」という固定観念が社会に定着していたため、日米開戦回避に払った彼の命懸けの努力もさして評価されることがなかった。

一方、一部の外務省関係者やその周囲には、枢軸外交に固着し日本の進路を誤らせた責任を否定し、現代にまでつらなる傲りを維持し堅持するため、野村吉三郎大使、井川忠雄、岩畔らや彼らの行った初期段階における(非常に友好的かつ好調に進んでいた)日米交渉を執拗に卑小化、歪曲、誹謗する向きも多いようである。世に種は尽きまじである。

ここに、岩畔豪雄と同時代を生きた政治家、岸信介元首相が岩畔に手向けた弔辞がある。

残念ながら、日米交渉や日米諒解案への言及はされておられないが、松岡洋右元外相の甥にあたり、かつ、さまざまな政治バランスの中点に位置することにより強力な指導力を発揮した氏の立場を考えれば致し方あるまい。

しかしながら、限られた言葉のなかで述べられた岩畔像はそれなりの実像を読む者の心に投影してくれるような気がする。

大戦後から冷戦へと続く難しい時代に日本の舵取りを行った大政治家の岩畔評、皆さんはどう受け止められるであろうか。

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岩畔君を想う      
              岸  信介氏 (元内閣総理大臣)
               「追想記」より
岩畔豪雄君は快男子で、豪放姦落という言葉は彼を評するためにあるような気がする。 

彼はいかつい風貌をしていたが、その心はきわめてやさしく、親切であった。また小児のような無邪気なところがあって、誰も彼に警戒心をもたず、不思議な親近感をもってつき合った。

彼の交友範囲は非常に広く、政財界その他多方面に多数の友人知己をもっていた。このような性質はいかにも軍人のイメージから遠いようであるが、本職の軍人としては立派な武人であった。

彼が大東亜戦争に反対した話は有名である。

陸軍省の軍事課長時代.米国の戦力論から 対米戦争反対を主張したため、軍首脳の忌緯にふれ、前線へ左遷されたが、当時主戦論渦巻く軍の中で敢然として非戦論を主張することは、生命を賭けなければやれないことであって、大変な勇気を必要とするものであった。

その意味で彼の武人としての根性は正真正銘確かなものであったと思う。

その彼が今はなきことを思うと寂しい。