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阪田誠盛さんより、以下のようなコメントいただきました。
先に申し上げたように、コメント部分が見にくいので(存在を知らない人も多いようです)
記事として再録の上、ご返事を書かせていただきます。

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阪田 wrote:
私のコメントを取り扱って戴いてありがとうございます。
私も若泉敬先生の「他策ナカリシヲ信ゼント欲ッス」は読みました。
実に考えさせられる内容の書だと思いました。
お察しの通り、阪田機関の阪田誠盛は私の実の祖父です。
身内の言葉としては少々腑に落ちないでしょうが、未だに謎が多く、時間のある時は関連する書物を読みあさっます。
岩畔氏とは同じ時代を生き、時には同じ場所で行動を共にしていたようですので、大変興味深く拝読させて戴いてます。
03/14 10:00:36
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ご返事ありがとうございます。

「腑に落ちない」ことはありません。
岩畔豪雄氏のご子息ともお話ししましたが、戦後になっても、実の父親である
岩畔の事が、はっきりと分かっていたとはいえない、というような事を仰って
おられました。

戦前、諜報関係で活躍した人の多くは、戦後も米中ソ、複雑であり、かつ緊張
をはらんだ、国際情勢の中、特別の「任務」を背負って動いていたようです。
きっと、家族にも打ち明けられない、秘密も多かったのではないかと思います。

終戦直後、陸軍省に陣取った岩畔は、米軍の進駐を前に、「これからど
うなるんだろう」との不安がる周囲の者たちに、「戦争に負けたからと言って
国がなくなってしまうわけじゃない。これから日本は米ソの間を綱渡りして生
きていくんだ」と励ましていたそうです。
事実、日本は、その後、米中ソの間を綱渡りをしながら戦争に巻き込まれるこ
となく「平和国家」として現在に至っています。
驚異の経済発展も成し遂げました。

そんな日本にかげりが出始めたのが、戦前世代が第一線から退き始め、戦後世
代が社会の中核を担うようになってからであることは、決して偶然ではないと
思います。

出版を契機に生前の岩畔を知る人と多数、お会いすることができましたが、そ
んな方達を見てきて、その感はますます深まりました。

かつて梅原猛氏に、拙著をお見せした折、「親戚の立場で書いた評伝という形
で初めて分かる『歴史』というものがある」というようなお言葉を頂戴いたし
ました。

最近、「歴史認識」とか「歴史の真相」という言葉が跳梁跋扈しています。
きれいそうに聞こえて、その実、「手垢」にまみれたきたない「魂胆」がひそ
んでいるようです。
そもそも、「政治」の場で扱うことではないと思いますし、「学者」とか「評
論家」、「識者」と称する人たちが、「研究費ほしさ」や、「権力」や「地位」
に対する執着から、追随している姿を見ると、「親戚だ」という立場で誰かが
書かねば、悪貨が良貨を駆逐するがごとく、「歴史の真相」は藪の中
と言うことになってしまうのではないでしょうか。

「歴史の真相」と申し上げましたが、私はそんなものは本来、存在しない
と思います。見る人見る人によって、その人の立場の「歴史」があると
思います。とりわけ、当事者にとってはなおさらそうだと思います。

逆説的になって申し訳ありません。

気をつけたいのは、歴史に対する「認識」に「スタンダード」を設けようとする
人たちではないかと思います。
その悪辣さは、歴史上のどんな「圧政」、「暴君」をもしのぐものではないか
と思います。少なくとも、どんな「圧政」、「暴君」も、人々の内面、精神までも
支配してはおりません。

阪田誠盛氏のこと、ご親戚のお立場で、知っておられることだけでもまとめて
おかれてはいかがかと思います。

私がお会いした岩畔豪雄の関係者の方達も、その後、次々とご他界されておら
れ、こうしたことを調べる最後のチャンスであったのではないかと思っており
ます。
(これは 02/25: 水野成夫氏のこと に阪田さんがおつけになったコメントに対するお返事です。コメント欄が常時表示になっていないので敢えて「記事」として御回答させていただきます)
\r\n
\r\nコメントいただきましてありがとうございました。
\r\n
\r\n阪田機関の阪田さんというのは、私が自著でも記した上海松機関長・坂田誠盛さんのことかと思います。木戸日記研究会編の「岩畔豪雄氏談話速記録」では確か「坂田」となっていたように思います。「阪田機関出動ス」をお読みになられたのならご存知でしょうが、なかなか面白い人間だったようです。
\r\n坂田氏と岩畔の関係に関しては、軽口が言い合えるような仲であったという事ぐらいしか知りません。旧日本軍の行った『対国民党政府経済攪乱作戦』の総責任者です。
\r\n偽造した「中華民国法幣」を使って、巨万の富を集めていましたが、終戦時、ほとんどすべてを現地に残して「命からがら」日本に引き揚げたようです。残された富は中国共産党により「接収」されています
\r\n
\r\n彼が中国に置き残した「巨万の富」すべてが中国共産党の「軍資金」(その他) になったとしたら、どうしてあれだけ短期間に中国共産党が欧米の後押しもある国民党を駆逐して中国の覇権を握ったかという「歴史の謎」も容易に理解して納得できるような気がします。
\r\n
\r\nしかし、分からない点も多々あります。
\r\nあの当時、蒋介石は現在台湾にある故宮博物館に収蔵されている膨大な財物をすべてトラックに詰めて持ち去っています。どうして特務機関長ともあろうものが、「命からがら」逃げ帰らなければならないほどもたもたしていたのか?そんな疑問を持つことから、「歴史の真実」は徐々にその幕を開けてくるのではないでしょうか。少なくとも「歴史」というもの、その真実を突き止めることは、そうたやすいものではないようです。
\r\n
\r\nこのことと直接の関係はありませんが、神父工作の当事者の2神父の一人、ウォルシュ神父は戦後、中国布教を任ぜられ中国大陸奥地に赴任しました。その時、一旦、日本にも立ち寄って岩畔は「送別会」も催しています。その後、ウォルシュ神父は十数年後に香港に突如として姿を現すまで、中国でまったくの行方不明となってしまいます。彼は、中共政府に「中国の原爆開発に関わる要人暗殺計画に関与した」スパイとして拘留され、十数年間という長きにわたり監禁されていました。
\r\n
\r\nこの容疑、本当なのか、でっち上げなのか、真相はヤブの中です。
\r\n
\r\nウォルシュ神父をよく知る教会関係者にも聞きましたが、彼自身は年も取っており、中国への赴任には気乗りうすだったにも関わらず、無理矢理行かされたような赴任だったとのことです。
\r\n
\r\n「スペルマン枢機卿の謀略だったという説もある」
\r\nそんな話も聞かされました。教会内部のいざこざに関して何の知識も持ち合わせないので、私にも何とお答えしていいかは分からなかったのですが・・・。(ちなみにスペルマン枢機卿というのは当時のメリノール派の枢機卿で、日本では「心のともしび運動」として活動しておられるジェームス・ハヤット神父、マクドネル神父などが有名です)
\r\n
\r\n少なくとも、スペルマン枢機卿という人物、その人の名前を冠した施設が日本にもいくつかあるように、対東洋布教に非常に熱心だったようです。スペルマンの名前のついた医療施設もいくつかあるようです。
\r\n
\r\nしかし、その犠牲になった形のウォルシュ司教、十数年間、心のよりどころとも言える聖書までとり上げられ、牢獄の中で、壁に向かって「ひたすら瞑想していた」そうです。(この話を聞いたとき、私は、「達磨大師」の話を思い出しました)
\r\n
\r\n想像の羽を広げるとしたら、アメリカに中国の原爆開発を何としてでも阻止しようという意志があり、ウォルシュ神父は何らかの形で、その工作活動に利用されたのかもしれません。
\r\n
\r\n陸軍中野学校やいろいろな特務機関の取り組みにより、日本が、アジアに築き上げてきた巨大な諜報網が戦後はアメリカの意志達成の道具となったのではないか、と言っても、それを想像に過ぎないと笑うことは出来ないと思います。
\r\n
\r\n少なくともアメリカは、戦後、インド独立工作に対する報復感情に燃えるイギリスから、岩畔を保護し続けています。ちょっとした罪とも言えない罪で、元日本軍人や軍属が次々と処刑されて行った時代の中、アメリカにとっては父祖の国とも言える大英帝国からインドという金城湯池を奪い去った一日本軍人を擁護する理由は何だったのでしょうか・・・。岩畔こそが、戦前日本の諜報活動の総責任者であったことを考えれば、出てくる答えはそう幾通りもあるとは思えませんが・・・。この当たりに、私は非常に興味をそそられました。
\r\n
\r\n若泉敬先生に関しては、彼の書いた「他策なかりしを信ぜんと欲す」に彼の関わった沖縄返還交渉に関してそのほとんど全貌が記されています。
\r\n
\r\n一般の方はご存じないかも知れませんが、沖縄返還交渉は、まったくの外務省抜きで、佐藤栄作首相のもと若泉敬氏一人が動いてまとめられています。そして、岩畔豪雄もその影にちゃんと存在していました。
\r\n
\r\nそもそものきっかけは、ライシャワー前駐日大使と若泉敬氏の対談であったと言われています。
\r\n
\r\n当時、小笠原列島が日本に返還されていますが、ある時、ライシャワー大使が若泉にこう言いました。
\r\n「小笠原が返還されたからと言って、沖縄まで返してくれと言われても困りますよ」
\r\nその言葉を、訝しんだ若泉は、そのことを師と仰ぐ岩畔に報告したところ、岩畔は言下にこういいました。
\r\n「ライシャワーさんは、『沖縄返還を言い出すんだったら、今だ』と謎をかけているんだよ」
\r\nライシャワー氏は、奥さんも日本人で、親日家として有名な大使でした。
\r\n岩畔は、直ちに若泉を当時外相であった椎名悦三郎の所に連れて行き、彼を使って交渉を直ちに始めるべきだと進言して、沖縄返還交渉が始まり、結局、沖縄は日本に返還されることになりました。
\r\n外相である椎名から、首相である佐藤まで含めて、誰一人、大戦勃発以来の「国家の重要外交」において外務官僚を関与させようという意見が出なかったというのは不思議な話ではありますが、当時、政府要人の間でも外務官僚というもの、その程度の評価しかなかったいうのが正解ではないでしょうか。そして、この時、外務官僚を関与させなかったのは、ある意味正解ではなかったかとも思います。さもないと、沖縄は、いまだに北方四島のように日本に帰ってきてはいないかも知れません。これは冗談です。何年も後の事にはなったかも知れませんが、さすがに今の時点では帰っているとは思います。(^_^)
\r\n
\r\n最近は、元外務官僚の人とも、何人かお付き合いしている人もおり、その当時どんな状況だったのかと聞いたことがありますが。
\r\n「誰かが(沖縄に絡んで)動いているとは、皆、思っていましたが、若泉さんだと分かったのはだいぶ後になってからのことでした」とのお答えであった。
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\r\n京都産業大学設立の大功労者である、2代目理事長の小野良介氏ともお話しをしたことがあるが、若泉氏の隠密行動をカバーするため、小野氏もアメリカ出張をわざわざこじつけて、若泉氏をその「カバン持ち」として任命し、若泉氏の渡米をマスコミの目から遮断するなどの方法も何度かとられたとのことでした。
\r\n
\r\n「他策ナカリシヲ信ゼント欲ッス」 もしまだお読みでなければ御一読をお薦めいたします。
\r\nお読みいただければ「非核三原則」そのものが、そもそもの最初から有名無実であったことさえ、誰も知らない、或いは、知らないふりをしながら、現実政治が動いていることがお分かりになると思います。
\r\n我々が生きている現実そのものが、すでに霧の中で真実の定かならざる「歴史」なのだと最近は実感します。
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\r\nちなみに、若泉敬さんは、イギリス留学後、防衛庁防衛研修所に出入りしておられた時に岩畔豪雄に見込まれ、京都産業大学創設の時に呼び寄せられたと聞いております。
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\r\n若泉は岩畔の示唆と援助を受けて沖縄返還交渉をまとめ上げていますが、その時のアメリカのカウンターパートがあの、キッシンジャーでした。
\r\n折からの日米繊維交渉の、どうしてこんなつまらない問題が、こんなに両国関係を悪化させるのか訳の分からない展開の中、沖縄返還交渉も大変な余波を蒙りましたが、キッシンジャーと若泉は、「俺の友だち(ニクソン)はこう言っている」、「お前の友だち(佐藤栄作)は何と言っている」と言ったやりとりを国際電話で延々と繰り返しながら、沖縄返還交渉をまとめ上げています。
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\r\nしかし、日米繊維交渉により、難航した結果としてでしょうか、アメリカは「非常時の核兵器の沖縄持ち込みに関しては、日本になんら了解を得る必要がない」という条件を譲ることはありませんでした。
\r\nそのことに関しては、一般には非公開の『秘密協定』ということで、別途の条文が設けられ、ニクソン、佐藤両首脳はその条文に署名しています。従って、非核三原則というのは、この時点で、全くの虚構になってしまったというわけです。
\r\n最近、北朝鮮の核武装に関して、安部首相が「日本は非核三原則を堅持する」と言明しておられましたが、佐藤栄作と言えば、安部首相にとっては叔父さんのはずなのですが、家族・親族間の対話はなかったのだろうかと不思議に思えたものです。  と、余談はここまでとして・・・。
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\r\n最初に申し上げた、ウォルシュ司教が、何故、行方不明になった十数年後に香港に現れたかも最後に付け加えておきましょう。
\r\n沖縄返還交渉と前後して行われた、米中国交回復劇の裏側で、キッシンジャーが中国政府に突きつけた要求の中に、(国交回復するためには)行方不明になっている米人神父を解放することという要求が入っていました。
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\r\n岩畔は、ウォルシュ司教が行方不明になった後も、ずっと、その安否を気にしており、鳥取選出の古井喜実代議士が自民党の使節団として中国に行く時も、人づてに周恩来首相に面会した時に、その安否をきいてくれと頼んでいます。
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\r\nその時の、周恩来の回答は、「調べてみたが分からなかった」だったそうです。
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\r\n多少、刺激しても動かない中国共産党政府と、使い捨てのコマとして闇の中に見捨ててしまおうという米国諜報機関。そのままだったら、きっと、ウォルシュ司教は一生、牢獄の中だったと思います。
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\r\n沖縄返還、米中国交回復、そしてキッシンジャーとの接点という、時代の与えた奇貨を利用して、旧友を見事救いだしてしまうと言うところに岩畔のすごさがあると思います。
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\r\nところで、阪田さんは阪田機関の阪田さんのご親戚でしょうか?